まるやま おうきょ

享保18年5月1日(1733年6月12日) - 寛政7年7月17日(1795年8月31日)

江戸時代中期の絵師。近現代の京都画壇にまでその系統が続く円山派の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。姓を丸山と誤表記する例が多い。



享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三ヵ所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。少年時代のことはあまり詳しくわかっていないが、遅くとも十代の後半には京へ出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門に入っている。

20代の頃にはいわゆる「眼鏡絵」の制作に携わっていたことが知られる。眼鏡絵とは、風景などを西洋画の線遠近法を応用して描き、これを「覗き眼鏡」という凸レンズを嵌めた箱を通して見ると立体的に見えるというものである。

明和3年(1766年)から「応挙」を名乗り始める。「応挙」の意は「銭舜挙(中国宋末 - 元初の画家)に応ずる」ということであり、中国の大家に劣らぬ水準の絵を描こうとする意が込められていると思われる。またこの頃から三井寺円満院の祐常門主の知己を得る。祐常は公家の二条家から門跡寺院に入って僧となった人物で、『萬誌』(ばんし)という日常雑事を記録した書物を残しているが、その中に応挙の言動が詳細に書き留められており、同時代の貴重な記録となっている。 この祐常門主や豪商三井家が応挙の主要なパトロンであった。代表作の《七難七福図》、《孔雀牡丹図》などは第二次大戦後まで三井寺円満院に伝来したものであり、《雪松図》は三井家に伝来したものである。また、兵庫・大乗寺、郷里穴太の金剛寺の障壁画群も代表作に数えられよう。

応挙の画風上の特色として第一に挙げるべきことは近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視したことである。前述の祐常著『萬誌』によれば、応挙は常に懐中に写生帖を忍ばせ、暇さえあればスケッチに余念がなかったようだ。現存する『花鳥写生図巻』(個人蔵、重要文化財)や東京国立博物館蔵の《写生帖》などには動物、昆虫、植物などがさまざまな角度から客観的に描写されている。応挙画は、こうした写生の技術を基礎としつつも、日本絵画の伝統的な画題を扱い、装飾性豊かな画面を創造しているところが特色である。一例として根津美術館蔵の《藤花図》屏風を見ると、藤の幹や枝は輪郭線を用いず、付立て(注)の技法で大胆に描き出す一方で、藤の花房は写実的かつ繊細に描かれ、全体としては琳派を思わせるような装飾性豊かな大画面をつくり出すことに成功している。卓越した画技と平明で親しみやすい画風から、応挙画は三井家をはじめとする富裕な町人層に好まれた。著名な弟子には呉春や長沢蘆雪、森徹山、源gなどがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派」と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流となっている。



円山四条派 筆法八代として
現在に至る。


 

 


 

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